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ある夜―老いた大地よ (ベケット)@シアタートラム
ベケット童貞を捨てた日

beckett.jpg



劇概要

精神に障害を抱えた老婆が一人舞台の上をウロウロしている。足元からはどこまでも伸びる一本のロープが垂れており、言葉になっていない言葉(過度の吃音)を発しながら舞台上に打たれた杭にロープをはっていく。そこに老人(理性の成れの果て)が登場しブツ切れの散文的な言葉で何かを回想するが、途中、意識が引き裂かれ言葉が二つに分裂してしまう。終いには切り取られた地面の上に倒れこみ、舞台上に張り巡らされたロープで体を拘束されながら、言葉を失う。



これまで見てきた中で最も難解な演劇であった。
舞台の上でベケットは意味や価値というものを次々に壊していく。
自明性と云う"あたりまえのこと"は、そこには存在しない。
意味すら存在しないし、必要としない演劇。
もはや演劇ですらなかった。


まず言葉。
老婆が過度の吃音であるために、意味の代名詞とも言える台詞を聞き取ることが非常に困難である。それにより言葉という演劇にとって重要な構成要素がノイズとなり、意図的に消尽されていく。そして老婆が気狂いのために、たとえ言葉を追うことが可能であったとしても結果的に意味と価値が消尽する。老婆の台詞はこんな感じ。

ね、ね、ね、ね、ね、ねねねねこ、ねこ ねここ ねこ ねここ が が が ねころ ねころ?? ねころんで、 ねころんで? 転んで? コロンで??  ねこ?



老婆は吃音を発しながら白いロープで黙々と舞台の上に舞台(能舞台)を作り上げる。これは出演者である観世榮夫(栄夫)が後で能を舞う為のフラグ。こうして純粋無垢なカオスフィールドにようやく意味らしい意味、舞台(ハコ/セカイ)が出現する。

後半はベケットの著書である「また終わるために」の中の散文をグチャグチャにカットアップサンプリングしたような台詞によって構築されていた、といか言いようがない。台詞というよりも中途半端に消化された吐瀉物(ゲロ)に近い。ぐちゃぐちゃという言葉でしか形容することが出来ない、語りえぬ劇。分裂病的なテクスト。
観世栄夫がズンズンと能を舞っていた。これは素人の僕でも理解できた数少ない演出の一つ。

途中、意識(言葉)が分裂してしまい、天から降ってくる自分の言葉(あらかじめ録音されもの)との対話?に切り替わりながら、無意味な老人は無意味な言葉を発し、切り取られた地面(立てかけられた地面)に寝転び(観世榮夫がロッククライミングのような感じで必死につかまっている)、気狂い老婆にロープで巻かれて終幕。


言葉と空間が"消尽していく"(ドゥルーズ)過程が描かれているということに気が付かなければ、劇から何も抽出することが出来なかっただろう。この演劇は観念の具体化といってもいい。もっと分かりやすく言えば、ベケット論の視覚化なのだ。僕らはベケットの作り上げた物語(世界)を見ているのではなく、咀嚼されたベケット論を観客席で見させられているのである。それゆえに一ページたりともベケット論など読んだことのない無学な僕には余りにもハードルが高かったといえる。「馬鹿お断り」って会場の入り口に貼っといてくれよ。


舞台上をゆらゆらさ迷い歩きながら破壊された断片的な言葉を吃音で発する老婆とは、「生まれる前から降りていた人」「 生まれてすらいない人」という「また終わるために」のなかの一節からイメージを膨らませたものなのだろうか。まともにベケットを読み解いたことのない僕には、これ以上の解釈は不可能。黙することしか出来ない。

俺は生まれるまえからおりていた
そうにきまっている
ただ生まれないわけにはいかなかった
それがあいつだった 俺は内側にいた 

中略

俺が声を持っているなんて
俺が考えを持っているなんて
そんなことはあるはずがない
そのくせ俺はしゃべっている



精神病理/分析学の影響を受けているということがこの散文から読み取れる。ベケットは解離性同一性障害や精神分裂病、離人症などのイレギュラーな精神になみなみならぬ興味を持っており、その結果がこの散文なのだろう。実際にユングの公演に足を運んだりしていたらしい。

現代の感覚からすれば、ユングなんてプップーだけれど、言葉や人格が引き裂かれていく(意識と身体の乖離)を描く分裂病的テクストそのものが当時は非常にレアなものだったと。レアだからよいというわけではなく、文学という形式にまで昇華させた事が一つの偉業であるのだ。僕らはその偉業を目の前にして、ヘトヘトになる。



観劇後のポストトークには、市松弘正、吉増剛造、宇野邦一氏らによる、ベケット論。ベケットの詩が英文で書かれたプリントを渡された瞬間に、大学の講義を受けている錯覚を覚えた。いやはや、冷や汗。1時間半にわたる講義の末、解散。いやぁ疲れた。心底疲れた。


講義は断片的にしか覚えていないが、吉増氏によるベケットの言語感覚の秀逸さに関する言説と、舞台に張られた白線(ロープ)を見て、「あたかも一つの精神からのように導かれる」というスピノザの言葉を思い出したという市村氏の話が面白かった。そういえば確かに一本の線だけがカオスという側面から離れていて、唯一正常さを保っていた。舞台のアンデンティティが一本の線(スピノザ)に回収されると、なるほど分かり易い。あー、そうか、ベケットを理解するためにはスピノザを読んでおかなければいけないわけねって、読めるかよ。スピノザとベケットの相違点を30分にわたり説いていたのだけれど、半分も理解できなかったお。

切符の買い方を知らなければ電車に乗れないように、スピノザを読んでおかなければベケットは理解できないと。その前にドゥルーズを読めよ。読めるかな。なんとなかるよ。きっと。終幕
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