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オタクイズデッド ? オタク・イズ・デッド  ? オタク is dead ? otaku is dead ? オタクは死んだ? 岡田斗司夫へのレスポンス編 その2
そろそろ『オタク is dead』の感想(レビュー)がネット上にupされ始める頃だと思う。僕も,あの空間に遭遇してしまった以上,責任を持って岡田氏にそれなりのレスポンスをさせていただきたいと思う。

まず始めに,あのイベントに参加し,数日経過してもなお,僕の脳裏に最大の疑問点として残っていることは,なぜ岡田氏が最後に涙を見せたのかということである。

結論から云うと,岡田氏のあの涙は"家族の葬式で流す涙"或いは"ペットが死んだときに流す涙"だったのではないかと僕は考える。というかそういう風にしか思えなかった。自分が育て上げてきたオタク民族やオタクカルチャーが死んだ(死にそう),あるいは今,ロフト+ワンで自分の手により殺そうとしている。だから感慨深くなって泣いてしまった。そのように解釈するしかないのである。

もしくは,あそこで『オタキング 岡田斗司夫』の葬式が行われた。そういう風にも解釈できる。

自分が死んで泣かない人間はいない。

『オタク is dead』のイベント名が『オタクキング is dead』に思えた客は多かっだろう。僕もその一人だ。

「新しい時代を作るのは老人ではない」
と,のたまったのは,かつての赤い彗星だった。
オタクが死んだと云うことはオタキングも同時に死んだのである。
そして僕ら若い世代は,古い体質のオタクに死なれても余り困らない。それどころか「あれも見てないのか,こんなのも知らないのか,お前は本当にアニメが好きなのか」と,お説教を聞かなくてすむから,死んでくれた方が気楽でさえある。(失礼な表現ではあるが・・・)
インプットと収集に精力を出す時代は確かに終わったのだ。

ニュース速報vipやブログを例に出すまでもなく,これからはもっと"ライトでニート"な感覚の,弱々しいオタク像が主流になっていくのだろう。
情報を大量に有するオタクよりも,オフセットで同人誌を作れるオタクよりも,飲み屋でさらりと誰にでも分かるオタクネタを引用(コピーアンドペースト)できる人間の方が価値がある存在なのだ。そういう時代。流行のアニメや,いじりやすいネタ,たとえば作画が崩壊しているアニメをネタとして楽しむだけの時代。そして,そのような軟派族がオタクと呼ばれる時代。不快になるのは理解できなくないが,焦燥はなにも生まない。ただ受け入れるしかないのである。


一部に受けるネタや,一部にしか受けないネタに価値は無くなった。
誰かが言ったように,マルクス・エンゲルスの『資本論』や『家族・私有財産・国家の起源』を読む人間より,庵野モヨコの『働きマン』を読む人間の方が社会的に強いのである。なぜならば,誰もエンゲルスの著作なんて読んではいないから。
それと同じように,第三世代の人間でJ9シリーズやゴーショーグンに詳しい者がいたとしても,周りの人間が反応してくれない以上,それはほとんど価値のない情報になるのだ。
それゆえに,歴史はどんどん軽視され,知識よりもグルーヴ(ノリ)や時事ネタが重要視されていく。これは,ただでさえワンクールに60本もアニメが放送されているのに,過去の作品なんて見てられないよ,という若者の悲鳴でもある。



オタクはまだ死んではない。勝手に殺さないで欲しいとすら思う。
オタクは此処にいるし,いまも増殖している。



確かに岡田氏はオタクブームの立て役者でもあり,制作側として八〇年代後半からナディアまでのアニメ界を支えてきた偉人でもある。平成オタク談議などからも分かるように,アニメ・ゲーム・漫画以外のサブカルチャーにも精通するお人でもある。
だが自分こそが,"オタクという概念"の最側近者あるという自意識を持つのはどうなのだろうか。エリート主義に凝り固まるオタクもいるし,萌えアニメとタイプムーンが世界の全てだと思っているオタクもいるのだ。そしてそれは悪いことではない。視野が狭いから,良くないと言うならば,ゼビウスにしか興味が無かったゲームフリークな人間が,かのポケットモンスターを作り上げた実例をどう説明する。

オタクには多様性がある。それこそ,『オタクのためのオタク』から,ストロー級のオタクまで,その多様性の存在が世界を回し,塗り替えるのではないか。その無差別級でインター(トランス)コンチネンタルな多様的存在が,オタクをさらなる次元へと導くのではないか。そういう可能性を無視する態度には僕は賛成できない。これは多分僕が若いからだろう。それを幻想と了解した上での発言。


オタクは死んだと岡田氏は声高にいうけれども,僕らは楽しくオタクライフを楽しんでいるために,"オタクの死"という岡田氏の突きつける現実に,まったく現実感(リアリティー)を持つこと出来ない。
別にそれは僕らオタク第三世代だけではなく,周りを見渡せばオタク第二世代もそれなりに楽しそうにオタクライフを送っているような気がするし,なにかそこに僕たちのオタクライフを脅かす不安要因,言い換えれば障害が発生しているとはとても思えない。

そのリアルではない現実を過酷な現実として受け止め,涙を流して

「オタクは死んだ,これはオタクの葬式である!!」

と熱く語られても,僕らは口をぽかーんと開けて,あっけにとられるしかないのだ。


三島由紀夫と岡田斗司夫の存在がダブって見える。


市ヶ谷で割腹自殺したゲイの小説家みたいに,一人で思い悩んで,挙げ句の果てに興奮して阿波踊りを踊りだしたようにしかみえなかった。というより,印象が完全にダブる。

場所が市ヶ谷から新宿の地下2階に変わっただけ。

(オタク原理主義者=岡田斗司夫シンパ族 の登場説)


(※ オタク原理主義なんて馬鹿みたいじゃない。っていうか,そこにどんなメリットがあるのよ。利益が無いところに政治は生まれない。オタク民族復興の具体的な利益を提示できなかった時点で岡田斗司夫は負けていたんだよ。)



そもそも僕は(現在22歳),はじめからオタク統一民族なる幻想を信じてはいない。というより,そのような幻想が本当にあったのかすら疑わしく感じてしまう。同じアニメファンであっても,声優オタクと作画オタクは相容れない存在であり,敵対するようなことも頻繁にあり,それが現実として当たり前のことであった。

つまり僕らにとって,物心付いた頃から,オタクというものはセクト化(宗派化)していたのである。

中核の人間が核マル連中と仲良く出来ないのと同じように,キリスト教アタナシウス派とアリウス派が仲良くないのと同じように,オタクはセクト化し,閉じこもっているのである。そしてそれを打開するためにプチクリが有効かと言えば,僕はそうは思えない。支流として細分化してしまった川が,また大きな一本の川に戻るには,個人の力ではなく,天変地異のような外的な強い要因が必要だ。あるいは長い時間が必要になることだろう。
そんな天変地異(革命)を起こすことが,個人の力で可能か不可能か,僕には分からないが,この過度の情報化社会であっても,オタク民族が復活しないことをみるにつけ,それは難しいと思わざるを得ない。


そもそも,オタクを復活させるためにはプチクリの概念が重要だと岡田氏は言うが,今やブログやSNSの全盛期。岡田氏がプチクリを提案しなくとも,そこかしこでプチクリが行われているのである。そして「オタク/数百万人」のブログユーザーがプチクリをしているにも関わらず,岡田氏の愛すべきオタク統一民族は死んでいくのである。

これはなぜなのか?

というより,プチクリは本当にオタクを復活させるのか?あるいは新しいオタク像を生み出すのか?やはり疑問は残る。

その3へ続く 
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2007/01/16 (火) 11:10:28 | | #[ 編集]
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